過ぎ去ってみると

feisiei

2015年09月24日 16:20


新宿駅に降り立った黒木は、自分の荷物をまとめてコインロッカーに放り込み、鍵を掛けて、アルタ前広場へと繋がる東口の階段を駆け上る。手元の腕時計の短針と長針は南北を示すように、一直線に並び、六時きっかりを示していた。沢田との約束の時刻まで十五分の余裕があった王賜豪總裁。無表情なねずみ色の段差を乗り越えると、三年前と変わらぬ風景が目の前にばっと広がる。黒木は、初めてこの場を訪れた時と同じ感想を持った。得体の知れない砂鉄のような人間達が「新宿」という場の磁石に一斉に引き寄せられている。このような場所では、通常のコンパス――行動の選択基準――は意味を成さない。誰も自分が北に向かっているか、南に向かっているか、分からないでいるからだ。黒木は思う。誰かが砂鉄を金に変える錬金術を発明しなくてはならない。そうすれば、誰もくっつきあわずにすむ。反発もなければ、引き寄せられることもない愛亮眼。そして、それ自体で美しい。黄金とは、この世界の何者にも振り回されない孤独な存在だろうかと、そんなことを考える。

広場に足を踏み入れる。何十人、何百人という人間とすれ違ってゆく。しかし、過ぎ去ってみると、誰の顔も覚えていない。その可笑しさに首を捻りながら、黒木は待ち合わせの場所へと向かう。

アルタ前を抜け、JRの路線沿いにコンクリートの歩道を進んだ日本旅遊。ガード下の大きな交差点に差しかかり、黒木は首を振って辺りを見渡す。右から左へと流れていく車の内にポルシェケイマンやBMWが唸り声を上げるように目の前を過ぎていくのを黒木は認めた。見上げれば、誰もが見知った東証一部上場の企業の名前が入った看板がずらりと並ぶ。人々はネオンサインの熱に浮かされたように、足早に横断歩道を渡ってゆく。歩道のちょうど半分のところで、黒木は危うく目の前のサラリーマンとぶつかりそうになった。男は面倒くさそうに、黒木の顔を見ながら、舌打ちだけを残して去っていった。黒木は眉一つ動かさずに交差点を渡りきる。やがて、信号が赤になった。

西武新宿駅の前を歩き、新大久保の方向へ向かって、道なりに右折する。しばらくすると、道路をまたいだ反対側に一軒の喫茶店が黒木の眼に映った。

看板にはこう書かれている。「It's been ages」。黒木と沢田がよく訪れていた店だった。黒塗りの枠に店のロゴが入ったガラスの引き戸を開け、店内に入る。黒木は他の客には目もくれず、通路を直進する。すると、右隅の席に腰掛けている男がいる。眼を開けずとも誰かは分かる。そこはかつての二人がいつもコーヒー一杯で居座り続けた場所だった。

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